博愛とは未来の全体利益に対する自己犠牲である。

img006.png

真の正義とは「愛」の感情である。しかし、自己愛、家族愛、肉親愛は「悪」である。

真人間の正しい感情とは何かというと、一言で言うと「愛」である。

人間は知能と社会性を高度に進化させた社会的動物であるため、その「愛」は全体に対して向けられるべきである。

しかし、自己愛は論外という社会的認識は定着しているものの、家族愛・肉親愛については微笑ましいものとして扱われている。これは明らかに誤りである。特定の1個体に対する執着は、裏返せばその他に対する軽視であり、全体を見ると非合理的なプロセスである。


例えば、定員20人のゴムボートに21人の人間が乗って遭難しているとする。ただちに1人を切り捨てなければ全員の命が危ない状況であるとする。

この状況で「21人のうち1人を海に捨てる」という行動は合理的な正義である。しかし、自己愛・家族愛・肉親愛に囚われている人間に限って、この捨てられる1名に[自分]や[自分が大切にしている人間]が選ばれた途端、ダダをこねたり文句を言ったりする。このような人間は、全体の足を引っ張り危険な状況に陥れようとする「明確な悪」である。


現実の日常でもこのようなケースは多々ある。

例えば、ブラック企業の社員が悪行を知りつつも、悪事に加担してしまうケースだ。こういう人間に限って「生活がある」とか「家族を養わなければならない」などの言い訳で他人を印象操作しようとする。容易に印象操作されてしまう人間も間抜けであるが、やり方が悪質である。

せっかく「愛」という正しい感情を持っているにもかかわらず、正しい方向にその感情を向けられない。非常に残念な人間である。



会社、民族、国家、クラスターに対する愛や帰属もまた「悪」である。

では、会社、民族、国家、クラスターなどの特定の集団に対する執着は「愛」だろうか?。もちろんNOだ。

例えば、ある世界に会社員と経営者が50%づつ存在したとする。この世界に「ブラック企業は悪である」と考えるクラスターと「ブラック企業は善である」と考えるクラスターが50%づつ存在したとする。

もし一切の個人的感情・背景を放棄し、論理的・客観的・俯瞰的な思考を全ての人間がしているとするならば、この世界では「ブラック企業は悪であると考える会社員」「ブラック企業は悪であると考える経営者」「ブラック企業は善であると考える会社員」「ブラック企業は善であると考える経営者」が25%づつ存在しなければ論理的にオカシイ。しかし、実際にはこうならず、「ブラック企業は悪である」と主張するのは会社員に偏る。


これは、本質はエゴ・我欲であるにもかかわらず、建前で耳障りの良い理念を語る恥知らずの悪人が存在するためだ。建前を主張する場として「集団」「クラスター」が利用される。このような脳機能に障害のある欠陥品が存在するから、「互いに(自分にとって都合の良い)正義を語りぶつかり合う国家間戦争」などが発生する。過去3000年の歴史を見ても同じような失敗を繰り返しているにもかかわらず、全く学習していないのは、学習するのに充分な知性を有していない「野生動物」が人間の中に紛れているからだろう。

集団への帰属・執着という愛情表現は、本質的に「自己愛」を根源としている最も醜く侮蔑すべき害悪であり、全く同情する余地のない社会のクズである。

右翼はクズ、左翼は偽善者、リベラルに至っては人間ですらない。


人類全体、地球全体、宇宙全体の利益を追及していても、未来が見えていないのならば「悪」である。

では、人類全体、地球全体、宇宙全体の公益性・全体利益を追及していれば、例外なく正義だろうか?。これもNOである。

例えば「公害問題」がある。

技術の革新は人類の全体利益につながる。しかし、”現時点”の人類のために、環境を破壊したり有害物質を垂れ流し、将来の人類あるいは地球の利益を損なうことは明らかに悪であり、歴史全体を俯瞰すると非合理的である。

全体の公益性を追及することは素晴らしいことであるが、”今”しか見えていないのであれば「悪」となることもあり得る。逆に言えば、”今”の全体利益を犠牲にすることは必ずしも「悪」ではなく、数千年レベルで俯瞰すると合理的になるケースも多い。


現実の日常でもこのようなケースは多々ある。

例えば、「今の生活の良し悪しだけを見て、政治・政策を語る行為」などだ。大半は、本質はエゴ・我欲であるにも関わらず、建前として「公益性」を吹聴している詐欺師だろう。こういう人間は「自分が”今”の犠牲になりたくない」と考えているエゴイスト=社会のクズだ。



「博愛」とは、将来の人類・地球・宇宙に対する自己犠牲である。

結論としては、正しい真人間の正しい感情とは、将来の人類・地球・宇宙に対する「愛」である。

10万年後の人類の繁栄のために、今、自分が身を粉にして切磋琢磨し、貢献し犠牲になるべきである。このような考え方が出来ない人間がいるから世の中が悪くなっていく。正しい行動がとれない人間は一切許してはならない。エゴ・我欲に囚われた欠陥品を淘汰し、正しい社会とすることが10万年後の人類の真の繁栄につながると思う。

今、私たちがしなければならないことは、徳のある心で合理的な行動ができる正しい人間の選別である。

バカな民衆を焼き殺せば世界が平和になる理由。正しい監視社会と優生学。







記事登録日:2017/08/09 記事更新日:2019/02/04





コメントの投稿は「コメント欄の運用ルール」を熟読・理解いただいた上、ルールを遵守してください。ルール違反は承認いたしませんし、スクリプトで機械的に自動削除しています。特に馬鹿丸出しのコメント・はてなブックマークが目立ちます。恥かきますよ?



このように注記しても書き込んでくる知性の低い人間が少なからずいるんですよね。あなた、本記事の批判対象のクラスターに属する人間ですよね?そして、この記事を読んで感情的になってるんじゃないの?その感情のまま勢いでコメントを書こうとしていますよね?感情論は一切ないと断言できますか?髪の毛一本ほどもないと断言できますか?






この記事へのコメント

  • おもち

    ヒトに博愛的な観点があるのは、ほかの生物と違い比較的に離れた生物の利益も考慮できるからで、本質的にヒトに近い生物の方を贔屓してしまい、ヒト同士でも家族の方を贔屓するわけでしょ?
    生物は自分の情報を後代に残そうとしているように見える傾向があるので、進化する上でわざわざ他の人を考えられる社会的生物のヒトが繁栄し、さらに延長として他の生物のことを考えられるのだと思います。
    あなたはヒトが考えられる頭があることから、完全に全ての生物を平等に愛せと言うのですね?環境問題や地球について触れてますし。
    でも、生物が情報を残そうとする観点から見たらやはり不完全(ややヒト重視)ながらもある程度他の生物配慮できる人間が多い方がいいのでは?
    優生学風(?)に言えば、博愛的な人は生物全体にとって有益であるから多く残したい。故に、そこそこ他の生物やヒトも思いやることができる利己的人間か、完全に利他的(ただしヒトと他の生物ではややヒト贔屓)であれば良いのだ、ということです
    2019年09月08日 23:55
  • おもち

    前のコメントなんか大きな勘違いしてましたね。人以外の生物云々とかすいません。あまり内容読んでなかったのが馬鹿丸出しで恥ずかしいです。
    家族愛や肉親愛は是とされるが20人船の例のように本当は非合理的であるし、また博愛といっても長期的な視野を持った観点から考えるべきで今だけしか見てないものは結局損をする可能性があるから将来の人類や地球、宇宙の利益のために自己犠牲するということですね。
    人間の利他的な考え自体はそもそも自分や自分に近い人の利益のために生まれたものであり、人間は利己的で個人主義的とはいかないまでも、純粋に社会のために利他的な行動をしているとは思えません。ただ確かに合理的に考えたら長期的に見て検討し、より多くの人のためになる選択をすべきですね。
    でも自己犠牲を厭わないのはどうなんでしょうか。(共に長期的な視点前提で)自分が犠牲になるよりも、やや大きい代償を人類全体で払えば一人当たりの負担はそこまでではないでしょう?総量は大きいけれど全員が少しずつ我慢するなど、それこそ利他的な考えのもとで工夫する場合、損得計算では必ずしも合理的でない場合があると思います。それともこういうやり方には反対でしょうか?
    2019年09月09日 13:08
  • 有田 正義

    はい。あくまで「ヒトという動物種の繁栄・人間全体の利益」を目的としており、全ての生物を平等に愛せという話ではありません。
    社会的生物として大切なのは、人という個体の繁栄でもなく、全ての生物の繁栄でもなく、あくまで人類全体・人間社会全体の繁栄です。

    将来の人類が美しい環境で暮らすために、地球の環境や他の動物種を守るべきであり、将来的に人類が宇宙に繁栄していくために宇宙の環境を守るということです。
    逆に言えば未来の人類が永久に関わることがないと考えられる、数千万光年先の惑星で公害が起きようと生物が死滅しようと我々人類の知ったことではありません。
    我々社会的生物が考えるべきことは「ヒトのための地球」であり「ヒトのための動物」であり「ヒトのための宇宙」ということです。

    ご指摘いただいた点はごもっともであり、「自己犠牲を厭わない」という表現が良くなかったかもしれません。
    根本的に私の主張は利他行動を推奨するものではありません。社会的生物としてヒトという集団・未来を含めた全体利益を判断基軸にすべきという話です。
    つまり「自分=1つの肉体・個体」という感覚ではなく「自分=社会全体」という感覚(個の放棄)を持つということであり、行動自体は利己的行動にすぎません(あくまで利己=社会全体であり、社会全体≠他人ということです)。

    社会集団全体で負担を分担しても、特定個体に負担を押し付けてもよく、どちらが社会全体にとって得になるかという合理判断にすぎません。
    例えば「自分という個体は社会に役立つ能力を持っている」と客観的に評価できる場合は、自分は一切負担せずに、社会に不要な人間にすべての負担を押し付けるという手段もありえます。この選択が社会全体の利益になるならば、不要な人間に負担を押し付けるという行動は圧倒的正義となります。
    重要なのは自分という肉体・個体を区別せずに、社会集団の1リソースとして客観的・俯瞰的に扱うということかと考えます。
    2019年09月16日 00:29